先日の大阪市立桜宮高校の部活における体罰自殺事件で思うことが有ります。


Darwin Roomの基本理念は「教養の再生」です。

これは役に立たないたくさんのどうでも良いようなことに、好奇心を持ちどこまでも探究して行くことで、得られる知識がそのひとの教養となり、どこか重要な場面で役に立つこともあるだろうという、ゴールのような目的がなく、むしろ学びそのものが目的の世界です。


そこで体罰自殺事件で思うことですが、橋下徹大阪市長の事件を受けての対応や、そのことから聞こえて来る市教育委員会や校長など教員側の動き、それに合わせたかのような、というかやらせのような運動部主将による体育科入試中止反対声明記者会見など、マスコミやネットの騒ぎを観ていますと、ぼんやり感じることが有ります。


それは、どうして「教養の再生」が重要だと、Darwin Roomが唱えるようになったかということと重なります。


「木を見て森を見ず」という言葉が有ります。

物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うことですね。

体罰自殺事件をそのような観点で考えました。


まず問題の先っぽである葉っぱのこと。

桜宮高校の部活の目的は何だったのでしょうか?

バスケ部が全国大会に出たり、18年も続く今回の体罰をした顧問教諭の戦績の評価は聞こえてきますが、そのバスケ部で活躍した生徒たちの社会人になってからの生き方のようなものは聞こえてきません。

この顧問教諭や桜宮高校、その保護者たちの生徒に対する期待とか目的は何なのでしょうか?

部活を通して得られた体験や知識を基に、社会に出た後の苦難に向かって行く、力強い考え方を持った社会人になってほしいということなのか?

しかし、、、おそらくそれが目的ではなく、別のイメージがあるのではないでしょうか?

例えば戦績を通して知名度を上げたい学校側と、有名高だから有利になる就職や進学に期待する生徒や保護者たちの景色です。


葉っぱから次に枝のこと。

部活を含む学校教育全体の目的は何か?

義務教育から高校・大学に至る教育風景を抜きに、今回の事件を見ることは出来ません。

学校教育を通して、人を育てる理念、安倍首相も改革のイメージを唱えておられます。

しかし現状は残念ながら詰め込み主義であり、考える力を持った人間力を育成する教育とは言えないと思います。

そこで、、、ここでも学歴や資格に偏重した保護者や企業社会、いじめがはびこりそれを隠す教育者たち、そして塾通いの子供たちの風景です。


枝から次は幹、木そのもののこと。

そのような教育を受けて排出された私たちがつくって来た社会としての日本の現状です。

社会福祉の在り方を根本から問われる高齢化人口の爆発、晩婚化で子供を作らない若者たち、その生活の基盤を支えられない企業文化の衰退の風景です。


木から最後の森のこと。

世界の中における日本の存在価値のことです。

戦後の国を造って来た「ものつくり」の価値観にしばられて、社会の仕組みや人類の暮らしに変革をもたらすような新しい価値創造ができない企業、景気浮揚だの経済のことばかりに目が向き、領土問題や軍備増強で憲法改正を叫ぶ民族主義の政治、アルジェリア人質問題で安否を邦人のことしか報道しないマスコミ、消費増税し国民を勝手に扱う官僚政治、そして何といっても事故の反省から原発問題に対するマスコミ・企業・大学・政治のおかしな動き、とりわけ選挙結果で示された国民の想像力の貧しさの風景です。


かなり見方に偏りもあろうかと思いますが、大阪市立桜宮高校の部活における体罰自殺事件は、このような私たちの精神構造全体の縮図になっていると考えるべきだと思います。

30発も40発も叩く顧問、いつも繰り返すこの姿が、これは何かおかしいぞ?と全体から考えることができる高校生に、育てることが私たちに出来ていたら、、、こんな不幸なことになってなかったと思います。
逆に森から順番に枝葉の方に目を向けて行くと、今回の尊い高校生の命は、実は国民である私たちが奪ってしまったということが見えてきます。 


昔、福沢諭吉が「学問のすすめ」を出してミリオンセラーになりました。

当時彼は、学問による知識を基にした「考える力」が重要になると問いたわけですが、時代が変っても同じです。
私たちは全体を見通し考え続けるのが、世界を生きるということだと思います。

そして、考えるためにはやはり「教養の再生」だと思うわけです。

今回の体罰による高校生の自殺事件のことも、全体から個々に至る思考の流れを意識して、考えることが大事だと思います。